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守山史談会新春特別講演会

皆さんこんにちは。今日(26日)は朝のうち雪、その後は曇りで経過しました。
最低は氷点下2℃、最高は3℃でした。

朝は雪が10センチほど積もっていました。新聞配達さんが4時前後に来るのですが、足跡が無かったので、4時過ぎに積もったのだと思います。

雪

今日は守山史談会の新春特別講演会がありました。
講師は七海晧奘(ななうみこうそう)氏。郡山の歴史家です。演題は「田村郡と田村麻呂説話」でした。
講演する七海晧奘氏

七海晧奘氏
手に持っている本は著書の「安積(あさか)」です。
後ろの掛け軸は清水寺、森清範貫主の揮毫です。(レプリカですが。)
机の上にある額には紫香楽の宮跡から発見された木簡のレプリカです。
 阿佐可夜・・・・
 難波津・・・
の2枚です。
紀貫之が古今和歌集仮名序にこの両歌は和歌の父母と綴っているものです。
この件に関しましては昨年の10月20日にアップしてますのでご覧あれ。

七海氏の本日のレジュメです。

レジュメ
当地方には田村町徳定(とくさだ)で田村麻呂が生まれたという伝説があります。

七海氏は万葉集が敗者の文学という考えの持ち主です。
当時の権力者は藤原氏、それに敗れた人たちの歌が大変多いと述べられています。

田村麻呂や安積親王、橘諸兄(葛城王)、大伴家持などを網羅された話を展開されていました。

今日も訪問ありがとうございました。
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守山藩の戊辰戦争 2

皆さんこんにちは。今日(28日)は曇りで、午前中に40分ほど雨が降りましたが、それはすっかり乾きました。
夕方からまた雨が降ってます。台風の影響でしょうか。久しぶりの雨でした。

最低は20℃でした。最高は28℃まで上がりました。

午前中の涼しいうちに刈払を40分ほどやりました。そのあとに雨が降り出しました。

午後は「守山藩の戊辰戦争」第2講座がありました。
講師は大河峯夫先生でした。
大河先生は学生の時代から守山に通って「守山藩御用留帳」の解読に勤しんだということです。
当然、戊辰戦争の時代も詳しく読み込まれています。「樫村公私日記」などもよく読まれています。

今日の講演会のポスターです。

ポスター

講演する大河先生です。
大河先生
2時間10分に及ぶ講演でした。

守山藩は水戸家の支藩なので、水戸の影響を受けています。よその支藩はそれほどでもなかったのですが、守山の藩士や郷士、神職など尊攘撃派(天狗党)の影響をもろに受けていました。
会津を討つ先手願いを領主に願い出るほどでした。

40人前後の聴衆が聴き入ってました。

聴衆1

しかし、奥羽列藩同盟ができて参加せざるを得ませんでした。
ところが三春が戦わず東征軍に降伏する(7月26日)と間もなく守山も戦わず降伏(7月28日)しました。

降伏後、東征軍の会津攻めに従って後方支援を命令され、一日48両余の出費を余儀なくされました。守山に帰ってくるまでの21日間の出費は1022両余でした。
守山の領民は軍役に出る出ないにかかわらず、大変な負担を強いられていました。
守山領民は藩に米1285俵と金1338両の嘆願をしています。

聴衆2

東征軍が守山藩の「会津追討先鋒」願などを知っていたのか戊辰戦争後には東征軍の占領地の管理を任されました。
過分な仕事を任された守山藩でした。

今日も訪問ありがとうございました。

守山史談会新春特別講演会

皆さんこんにちは。今日(27日)は天気は快晴でしたが、強風が吹き荒れる1日でした。

最低気温は深夜1時に氷点下4.2℃まで下がりました。その後徐々に上がって最高は13時に氷点下0.4℃になりましたが、やっぱり今日も氷点下でした。雪や氷はなかなか融けませんね。

今日の午前中はは守山史談会の新春特別講演会でした。
講師は大安場古墳資料館の垣内和孝さんです。
今日の演題は「陸奥国安積郡小川郷と東山田遺跡」でした。
講演する垣内さん。

講演する垣内さん
東山田遺跡は守山の北東1キロの所にあります。田村町山中字東山田にあるのでそう呼ばれています。今は東山ヒルズという団地になってます。

レジュメです。

レジュメ2

東山田遺跡は「和名類聚抄」にある安積郡小川郷の中心集落であるということです。

奈良・平安時代の遺跡だそうです。『郡山の歴史』からの抜粋です。

資料1の2
左ページの地図の赤く染まっている部分が守山周辺です。奈良・平安時代の遺跡が稠密に集まっているようです。

資料2は遺跡とそこからの出土状況です。

資料2
土師器よりも須恵器が多いとか、倉庫のような建物群があるとか、この辺の中心的な集落であった可能性がある遺跡だそうです。「火長」とへら書きされた瓦も出土しました。

発掘調査された後、遺跡の上は団地となりました。

開発された遺跡
古代もいい集落だったのでしょうね。
近世以降は山林となっていました。いわゆる里山です。

今日も訪問ありがとうございました。

柴塚城へ

皆さんこんにちは。今日(19日)の午前中は晴れでした。荒れる予報だったのですが、いい天気になりました。午後からは雲が多くなりました。

最低は6時7時に2.1℃まで下がりました。最高は日差しのあった11時に5.4℃まで上がりました。
しかし、夜に入り19時には1.6℃まで下がってます。

今日は午前中に守山史談会の「宇津峰合戦を歩く」その3弾。谷田川口、川曲口、そして柴塚城を歩きました。

1352年(正平7、観応3=文和元)8月宇津峰の南麓を抑えた北朝軍は北麓の谷田川口を抑えました。

国道49号線から宇津峰への登山道です。谷田川口です。

谷田川口案内板

同じ場所にある道標です。
頂上まで2.4キロ

途中に馬場平があります。その昔、ここで馬を飼って調教したのでしょうか。
馬場平

さらに上がっていくと御井戸の清水があります。もうすぐ宇津峰の頂上です。涸れることのない清水です。車はここまでです。
御井戸の清水

御井戸の清水の案内板。
御井戸の清水案内板

御井戸の清水から郡山方面を望む。
御井戸の清水からの眺望

再び49号線に戻り栃本方面へ。川曲口から望む宇津峰の頂上。
川曲口より宇津峰を望む
1352年10月10日に北朝軍は川曲口で南朝軍と合戦をしていますが、決着がつかなかったようです。この後、次の年まで戦いの記録はありません。冬は戦いをしなかったのでしょうか。

川曲口より長平城を望む。

長平城を望む
そして、次の年1353年(正平8、文和2)2月28日に再び川曲口で合戦が行われます。
田村の庄からの唯一の補給路の川曲口を失った南朝軍は兵糧に事欠くようになったのでしょうか。
4月に入ると北朝軍はさらに柴塚城から宇津峰を目指し、侵攻します。
柴塚城を望む。

柴塚城を望む

柴塚城はあまり広くはありません。見張り櫓程度の建物があったのでしょうか。見晴らしはよかったです。石の祠がありました。
柴塚城主郭
そして、5月4日、宇津峰城は落城します。
この後、南朝のあるじ守永親王と総大将北畠顕信は出羽へ逃れたということになってます。
田村の庄司はどうなったのか、記録がありません。

これで守山史談会の「宇津峰合戦を歩く」は一旦終了となります。

今日も訪問ありがとうございました。

宇津峰合戦を歩く

皆さんこんにちは。今日(22日)は台風が近づいているため昨夜方から本降りの雨でした。

紀伊半島の方は雨が大変だったようですね。皆さんの所は大丈夫だったでしょうか。これから東海、関東方面に接近するようです。十分、ご注意ください。

昨日から15℃前後で推移。9時頃から夜まで16℃台で推移。台風の影響でしょうか。

午前中は雨の中、吟行をしました。場所は福島飛行場のある玉川村の東福寺。
午後は須賀川のホテルで句会。男子ばかり11名集まりました。

昨日(21日)に歩いた「宇津峰合戦を歩く」をアップします。
ここは田村の庄、柄久野です。北朝方が攻め込んできて南朝方と合戦になりましたが、北朝方が勝ち進みます。晴れていれば向こうに宇津峰が見えます。

柄久野

さらに北朝方は新御堂に陣取り、宇津峰攻めの準備をします。宇津峰には南朝の宇津峰の宮(守永王、後醍醐天皇の孫)と北畠顕信がおります。北朝方の総大将は吉良貞家です。
新御堂はこの埋平に比定されます。
埋平の古民家

埋平の古民家

埋平の集落は宇津峰の南斜面の山懐に抱かれた所です。暖かいのか柚子がありました。色づいてきました。
色づく柚子

ポポーもありました。
ポポ

集落の一番上には観音様を祀った甘露寺があります。(仙道三十三所巡十番札所)こちらが新御堂なのでしょうか。
甘露寺

集落の前の道に面して貴人塚があります。その昔の貴人の墓所とか。
貴人塚

さらに北朝方は矢柄(やえ)城を攻めます。こちらは宇津峰城の大手の入り口と言われている所です。真ん中のこんもりとしたところです。
矢柄城跡

この上には鎌倉時代末期(応長元年 1311)の板碑があります。
板碑
この辺りで正平7年、観応3年=文和元年(1352年)の7月頃に合戦がありました。この年には決着がつかず、翌年まで持ち越します。

今日も訪問ありがとうございました。

プロフィール

イングリシュガーデン

Author:イングリシュガーデン
守山周辺の出来事を少しずつご紹介いたします。

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